佐倉と山形柏倉の関係とは
<資料>
①『蔵王地区』はもと『堀田村』であった
山形城のお殿様は35人
延文元年(1356) ~ 元和8年(1622) - 慶長8年(1603) ~ 明治元年(1868)
最上時代 266年間 13人の殿様
江戸時代 徳川 265年間 22人の殿様
◇貞享 2年 (1685) 山形城主に堀田正仲 1年間在城
◇元禄13年 (1700) 山形城主に堀田正虎、正春、正亮46年間のお殿様
◇明和 元年 (1767) 千葉県佐倉藩の堀田正順のとき柏倉陣屋を置いた
◇明治 元年 (1868) 堀田領の飛地として105年間支配になる 46ヶ村4万石
◇明治22年 (1889) 堀田村と命名 9ヶ村
高湯、山神、上野、半郷、金瓶、山田、成沢、飯田、桜田町村制施行
◇昭和25年 (1950) 蔵王村と蔵王山が日本観光地百選第1位になり改名する
◇昭和31年 (1958) 山形市蔵王 町村合併による、翌年金瓶は分離し上山に合併
②堀田氏民生の一端
柏倉陣屋72名 代官 田内与七郎 父は山形の人で佐倉城勤め1800年柏倉代官に任命
◇天明の大飢饉 堀田正順 天明3年(1783)大冷害凶作 3分作~御領米を配備
◇社倉の奨励 堀田正陸 天保12年(1841)社倉方を置く 医学局1842年
天保14年(1843)順天堂病院日本最初の私立病院を、佐藤泰然を江戸から招いて開いた。
「西の長崎、東の佐倉」オランダ医学・近代医学の先駆者となる。
藩校 成徳書院をつくる。分校を柏倉陣屋に成徳北庠を置く
◇種痘の実施 堀田正倫 安政4年(1857)陣屋内に種痘方役所を設置して2才幼児を
調べ陣屋内につれて種痘を実施している。成倫みずから息子に人体実験 嘉永2年(1849)12月 領内にオランダ種痘法を奨励を通達した。『遠国御領分ハソノ村方ニ志有之医師佐倉江相越、蘭法種痘ノ法ヲ伝授シ村村江施シ可申』
※寛政8年(1796)ジェンナー牛痘接種に成功
日本伝来は53年後(1849)
1852年長沢理玄
◇飯田の郷倉・羽竜沼の改修・酢川温泉神社の石段・長栄稲荷神社の社殿再建・社額
堀田つつみ・鴻巣沼の大普請・成沢八幡神社社殿を改築・天保12年 堀田村村に郷倉を設置
柏倉陣屋は、総州佐倉城主(現千葉県佐倉市)堀田11万石の内、約4万石の山形分領46ケ村を支配する役所でした。今の柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺にあったのです。南北百余間(西部児童館から塩辛田の地蔵様まで)東西六十余間(山形電子・北あたりまで)、約3町3反2畝歩の広さ、四方を石垣で囲み、東正面にはお堀が水をたたえていました。
表門は、今の児童館の南西辺りに東向きにあり、門の前は広場で「高札場」(今の掲示板)と呼ばれていました。
表門を入ると、すぐ「お役所」が東向きに建っており、いろいろな行政事務をとっていたのです。その奥には藩校「成徳書院」(せいとくしょいん)の柏倉分校「北庠」(ほくしょう)があり、武士だけでなく領内の百姓も学べた、当時としては随分開かれた学校で、各村の村役層育成に大きな力となっていたことは注目すべきことでしょう。『柏倉門伝村史』には、北庠に「算術」はなかったとありますが、それは誤りで、佐倉藩の資料によると「北庠の算学教師」が任命されており、算術が教えられていました。
学校の西には中村羽右ヱ門の「郷宿」(ごうやど)(陣屋に用があってきた人たちの宿泊所)がありました。
「お役所」の周囲には、奉行や代官はじめ各役人の住宅があり、その他、倉庫、馬小屋、工作所、鍛冶屋、牢屋など大体40棟くらいの建物があったようです。
陣屋のおよそ真ん中に稲荷様があり、今の堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代からある唯一の建物です。
陣屋の南には「割元」(大庄屋)中村五兵ヱ屋敷の石垣が往時を偲ばせてくれます。
今、中林山の上が墓地になっていますが、陣屋の調練場(ちょうれんば)で、鉄砲や用兵訓練したところでした。
陣屋には、大目付、奉行、物書、吟味役、学校都講、蔵方、勘定方、装束方、山方、勝手組、先弓、鉄砲細工、医師、各手代など大体40人以上の役人が居たので、その家族や使用人などを含めると陣屋内には大体7~80人は生活していたことでしょう。
柏倉陣屋を今の場所に初めて設置したのは延亨四年(1747)、福島県の棚倉城主・小笠原氏で山形分領2万石(22ヶ村)支配のためでした。その後、宝暦13年(1763)に堀田氏に引き継がれて以来、一時幕領になったり変動しますが、明治4年(1871)、陣屋廃絶まで百余年の長い間この西山形地区は治下46ヶ村の中心地でした。それで、今までも陣屋のお膝元というプライドを持ちつづけたし、今後もよい意味でそうありたいものです。(結城 敏雄)
柏倉陣屋の跡(山形県山形市柏倉)
柏倉陣屋は延亨4年から廃藩置県が敷かれた明治4年(1871年)まで 124年間に渡る長い間、この地に置かれ、堀田家の佐倉藩はその間108年を治めました。
佐倉藩支配の陣屋には、藩学の「北庠」や種痘所が陣屋入口の傍に設置されました。
それは、代官 田内与七郎成伸 ・ 藩主 堀田正睦の時代です
「北庠」では、陣屋に仕える武士の子弟ほか村々の人々も学問を習いました。
種痘所では、当時の先端医療だったオランダ医学が導入され、種痘が施され、疱瘡から多くの子供の命が救われました。
その頃、佐倉藩では、藩主の堀田正睦は、長崎のオランダ医学・佐倉のオランダ医学と言われる最先端の医療を精力的に行っていました。
山形に大勢いた小作農達も、自分の治めた年貢米が、人々の命を救う医学等に使われていることに誇りを持っていただろうと推測されます。
● 堀田永久稲荷神社 柏倉陣屋4万石を守った「いなりさま」
堀田永久稲荷神社。これが陣屋の「いなりさま」 の正式な御社号(おなまえ)です。
明治維新まで堀田藩山形分領4万石46ヶ村を支配した『柏倉陣屋』の守護神として、大体陣屋の中心地に石垣高くおまつりされてきたのです。ここが堀田藩の陣屋になったのは、宝暦13年(1763)で7月15日ですが、その年の9月15日すぐお稲荷様をおまつりしました。お稲荷様は食べ物の神様、五穀豊穣、商売繁昌に御利益がある神様ですから領内46ヶ村の繁栄の為、大もとの京都の伏見稲荷様(現・伏見稲荷大社)から御分霊をいただいてきたのでしょう。それから十年後の安永2年(1773)8月に、この稲荷様は「正一位」と称することを正式に認められました。
それから約100年、明治4年(1871)、廃藩置県で陣屋廃絶、9月には諸施設すべて取払われましたが稲荷様だけは堀田様の所有として残りました。(結城 敏雄)
堀田永久稲荷神社(山形県山形市柏倉)
今も昔も、稲作の神様・商売繁盛の神様として地域の人々に祭られています。
又、山形市の蔵王地区に「蔵王堀田」という地名があります。
それは、廃藩置県の時に、堀田の統治を残すべく「堀田村」が出来ました。
その時の名残で、蔵王温泉に行く途中は、蔵王堀田という名前が残りました。
「平清水焼き」は堀田藩の時に始まりました。
堀田の殿様と御家来衆は山形の領地を愛し、家族は、再び女中として奉公にあげました。
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