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2016年8月1日月曜日

文化の確保について~「八王子芸者」について~

八王子芸者について

 花街としての歴史は古く、江戸時代は甲州街道の宿場町であると同時に絹織物産業の街として栄え、街道の旅籠には飯盛女(宿場女郎)が置かれ、後の遊廓の元となる。明治初期に芸妓置屋、料理屋による狭義の花街が誕生する。大火の影響で遊廓は田町に移転し、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。一方の花街は、織物産業の影響で繁栄し昭和4年(1929年)には芸妓150名、料理屋14軒、待合36軒、置屋39軒[1]であった。第2次世界大戦による休業、空襲の被害を経て、敗戦後に復興した。洋服の需要が増え料亭45軒、芸妓215名で繁盛を極めた。しかし、昭和30年代後半から芸妓、料亭数が減少し、平成9年(1997年)には、料亭6軒、割烹料亭5軒、芸妓14名であった。花街の伝統が風前の灯火に危機を感じた商工会議所や住民は、平成11年(2007年)に「八王子黒塀に親しむ会」を結成し花街文化の伝承とその情報を発信し、芸妓衆は地元の行事に積極的に参加し技芸を披露している。特に八王子芸妓の恵(めぐみ)は置屋「幸乃恵」を開業し若手の育成に努めている。

 また、八王子花柳界にとって50年ぶりに半玉デビューがあったとのことでした。



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