議会で2019年ラグビーワードカップキャンプ地誘致の取組みの際、佐倉のラグビーのキーマンを調査したところ、ひとりの伝説の人物・岡本恒雄さんをみつけました。10年前の毎日新聞の記事を見つけましたので、ご紹介します。また、成田市が毎年開催しているラグビー協会のイベントを「成田ラグビーフェスティバル」とし、市民を巻き込んで2019年ラグビーワードカップキャンプ地誘致を視野に入れて取組んでいるような気がしています!!「成田は全般的に、市民と協力して攻めている感じを受け、企画力があるなぁ!!と指をくわえれみているのが、現状の状況です!!」
2005/8/4毎日新聞
ラガーマンの原点
1968年に県立佐倉高校ラグビー部は初めて全国大会に出場し、花園ラグビー場の土を踏んだ。当時主将としてチームを引っ張った岡本恒雄さん(当時 55)は法政大学時代には「関東学生代表」に選ばれたこともある、わが国トップレベルのラガーマンだ。
ラグビーとの出合いは佐倉高入学がきっかけだった。中学まではサッカーをしていたため高校へ進学後も続けるつもりだったが、当時、同校にはサッカー部がなかった。がっかりしたが隣に住んでいた中学の先輩が同校ラグビー部員で「おい、佐倉高ではラグビーをやれ」と誘われた。当時の岡本さんの家は両親も兄弟も働いていて、一人夕食を食べることも多かった。「家に帰ってもやることがない」と思ったのと、体を動かすことが大好きだったため、入部を決意した。
全国大会を一度も経験したことのないチームだった。ただし、練習は厳しく、特に夏休み中の「夏合宿」は一日に5~6時間もしゃく熱のグラウンドを走り回ったという。あまりの過酷さに20人いた1年生部員は10人に減り、残った部員も次々と倒れ、岡本さんだけが残ったという。「今の時代では考えられないくらいスパルタ」と振り返る。
岡本さんをラグビーのとりこにさせたのはデビュー戦の練習試合。たまたま転がってきたボールを抱えて、そのまま駆け抜け「トライ」を決めた。「そう快だった」。その時の感動を今も忘れない。
卒業まで一貫してレギュラー。3年生になってからは監督から指名されて主将になった。試験期間中、部は休みだったが、一人ユニホームに着替えて講堂の外に設置されていた裸電球の下をひたすら走りこんだ。「ラグビーばかでした」と笑う。
3年の9月、国体出場をかけた東京都代表との予選で一点差で負けた。「とにかく全国を目指そう」。大学進学を目指す3年生は引退の時期だったが、残って「全国高校ラグビー大会」を目指すことを誓った。大学生のOBが指導に来て、チームは一丸となった。迎えた南関東大会。雪解けでぬかるんだグラウンドで、全国大会の切符をかけた強豪チームとの一戦は前半終了時には負けていた。しかし、後半に同校はペナルティーキックの好機を得た。蹴るのは岡本さん。グラウンドの緊張が高まる中、25ヤード先のクロスバー目指しこん身のキック。バーの上を通ったボールが佐倉高の願いをかなえた。「奇跡だった」。チームはそのまま勝ち、同校初の「花園」への切符を手にした。
全国大会は一回戦敗退。就職するつもりでいたが「まだやり残したことがある」と大学の推薦を受けるための試合に出場し、声がかかるのを待った。名門・法政大学からの誘いを受け、家族に相談して進学を決めた。
明治生命(当時)で35歳まで現役を続けた。現在も「不惑クラブ」に所属し、月1~2回試合に出場している。根っからのラガーマンの原点は「思えば思うほど楽しかった」という高校時代にある。
以上 佐倉は成田より、ラグビーに関しては実績、時間などの積み重ねがあるにも関わらず、チャンスを逃している気がしている、今日、この頃です。
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