本日、三谷幸喜監督の「清須会議」が公開されます。清須会議とは、安土桃山時代の天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある。天正10年の本能寺の変において、織田家前当主織田信長は京都で家臣の明智光秀によって討たれ、信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠も二条城で死亡した。光秀は山崎の戦いで討たれ、織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(愛知県清須市)で開催された。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)。 重要なことは織田一族が集まって後継者を決めたのではなく、重臣が決定し、織田一族は参加すら出来なかったことである。そして重臣が大名として領土を支配し独立し、織田家当主はただの名誉職になってしまったとされています。
私事ですが、平成2、3年と当時通学していた滝川学園 名古屋文理大学が清州のお隣の愛知県稲沢市にあり当時、平成元年に現在のお城が出来ていましたが、庭などの公園整備をしており、大学のキャンパスから清州城まで10分でしたので、よく、清州城を眺めながら当時のクラスメイトの成田、尾崎、加藤、木俣、佐藤などと将来の展望についてよく語っていた事がありました。今、思えば、私たちにとってはまさしく「平成版 清須会議」であったと思います。
以上 平成の清須会議を行っていた高木大輔の過去についての報告でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿