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犬山城天守閣 |
私の人間形成において、大きな影響をもたらしているのが、愛知県立犬山高校での
3年間、平成初代生徒会長、野球部、犬山城築城450年記念事業参画などと、幾つかの
恋愛に熱く、真剣に取組んだ高校生活があったからこそだと思っています。
「伝統校の自由な校風の中で紳士、淑女であれ!!」と潜在的に叩き込まれました。
さて、佐倉藩と、尾張犬山の関わりが歴史的にある事を紹介します。
現在、国宝の城として木曽川に君臨する犬山城。
その犬山城を近世城郭にまで成長させ、城下町も整備したのが、
小笠原秀次です。
犬山城の整備後、1606年~1608年まで、佐倉藩藩主(1606~1608年)として、佐倉の
藩政を行いました。
その後、佐倉城下町400年記念事業として、現在の佐倉城址を1610年~1617年まで
の月日をかけて、現在の佐倉のまちの骨格を築いた土井利勝が佐倉の藩政を引き継い
でいます。
そんな、歴史を噛みしめながら、現在、「尾張犬山の野武士」ときには、「尾張犬山の
足軽」として私は佐倉市政に取組んでいます。
機会があれば、佐倉の歴史において、土井利勝や堀田様ではなく、
尾張犬山 小笠原秀次
の企画を「佐倉城下町400年事業」として実行するのが私の仕事であると自覚しています。
以上 尾張犬山の野武士 高木大輔 からの報告でした。
以下 詳細資料として参照してください。
小笠原秀次 ←クリック
本佐倉城 ←クリック
佐倉藩 (HPより 出典)
武田(徳川)家→松平家→※小笠原家→土井家→石川家→松平(形原)家→堀田家→松平(大給)家→大久保家→戸田家→稲葉家→松平(大給)家→堀田家
佐倉藩は、前半は、老中・大老となる幕格の中心人物が入封し、罷免されたり、致仕、失脚すると移動していく、という位置の重要な藩である。
家康は関東入りに際して、五男の①武田信吉を佐倉に4万石で配置する。信吉が常陸水戸に移ると、六男の②松平忠輝が5万石で入るが、信濃川中島(松代)へ。
③小笠原秀次が尾張犬山より入って、常陸笠間へ。
下総小見川より、老中となった④土井利勝が3万2千石で入って、幕閣の重鎮として累進を重ね、相次いで加増され14万2千石を領するに至る。下総古河へ転出。
豊後日田より⑤石川忠総が7万石で入り、近江膳所へ。
摂津高崎より⑥松平(形原かたのはら)家信が4万石で入り、次の康信が再び摂津高槻へ戻る。
信濃松本より、⑦堀田正盛が11万石という大封を得て入るが、家光に殉死。子の正信は幕政に不満を抱き、佐倉に無断帰城したため、除封。配流地の阿波徳島で将軍家綱の死を知って自殺。
上野館林から⑧松平(大給)乗久が入るが肥前唐津へ。
同地肥前唐津から、⑨大久保忠朝が8万3千石で入り、老中となって、大久保長安事件以来、不遇を囲っていた大久保家中興を成し、加増の上、藩祖大久保忠隣の最初の封地相模小田原へ復帰。
武蔵岩槻から⑩戸田忠昌が6万1千石で入り、老中となって、7万1千石に加増。次代忠真は越後高田へ。
越後高田からこれも老中の⑫稲葉正往が10万2千石で入り、次代正知は山城淀へ。
同地、山城淀から、吉宗の参謀格の⑬老中松平(大給)乗邑が6万石で入り、子の乗佑が出羽山形へ。
同地、出羽山形から、老中となった⑭堀田正亮が10万石で入封。老中首座をつとめ、1万石加増11万石となる。堀田家の支配で定着。
山形からの移封に伴い、第二次堀田家佐倉藩の領地は、下総の印旛、千葉、埴生、海上、匝瑳、香取各郡のうち、上総の山辺、武射、長柄、夷隅、望陀、市原各郡のうち、さらに出羽村山郡にわたり、城付きの両総地域で7万石、山形分領が4万石あったといい、山形分領にも相当数の家臣を常駐させていた。
幕末の老中、堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然を招いて順天堂を開かせ、学問を奨励する。ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米通商条約締結などで、奔走するが、井伊直弼の大老就任で、罷免、蟄居。堀田正睦については佐藤雅美氏の著作、講談社文庫「開国」~愚直の宰相・堀田正睦~をご一読いただくと当時の幕閣の雰囲気がよくわかり面白い。