戦後の日本、高度成長時代とともに日本を照らしてくれたのが佐倉で生まれ育った長嶋茂雄 読売ジャイアンツ終身名誉監督です。
本日2月20日は、長嶋監督の誕生日です。
私は佐倉に住んで議員となりまた、野球人として何か、長嶋さんの功績を佐倉で称えたいと考え、昨年7月7日七夕にかたりで長嶋さんの功績を伝えている山田雅人さんにお願いして、佐倉で
「長嶋茂雄 対 村山 実 伝説の天覧試合」をかたって頂きました。
佐倉として、もっと長嶋さんを称えるべきだと考えていますが、なかなか団体では前にすすまないので、私、個人で機会がある事に「長嶋さんの功績を称えるイベント」を企画して行きたいと考えています。
先日、大相撲の大鵬さんが国民栄誉賞を受賞しましたが、私は長嶋さんがお元気なうちに佐倉に来て頂いて、野球少年に夢を与えるようなイベントの開催、佐倉市として2月20日は佐倉学の一環としてスポーツ記念日にするなど個性的な郷土の教育に取組むとともに、日本の高度成長時代の太陽だった長嶋茂雄さんに国民栄誉賞を与えるべきだと考えます。
長嶋茂雄が過ごした佐倉を様々なホームページから抜粋しました。
1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に、父「利(とし)」と母「ちよ」の間に兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれる。幼少時代、阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので[2]、初めて握ったバットは青竹を割った手製のものであった[3]。小学6年のときに兄が所属していた地元の青年野球団ハヤテ・クラブに入団。兄の下で遊撃手として育てられる。
1951年4月、千葉県立佐倉第一高等学校に進学する。2年生から4番打者を担う[2]。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉県代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(昭和28年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた[4]。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放つ[5]。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打[5]を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。
この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなる。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がおり、久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした[6]。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、更に上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念[7]。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた[7]。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。 同年秋、伊東スタジアムで行われた立教大学野球部のセレクションで、フェンス直撃を含む3本のヒットを打ち、砂押にも認められる。
以上 2月20日は佐倉で長嶋茂雄を称える記念日にするべきだと考える佐倉市議会議員
・野球人 高木大輔の思いでした。