現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。1811年2月場所(44歳)で雷電は全休したのちに現役を引退し、松江藩の相撲頭取に任命される。頭取としての最大の働きはのちの第7代横綱稲妻雷五郎を見出したことである。その後、1814年の大火によって焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力するが、この鐘の形状が幕府上役の不興を買って江戸払いに処せられた。1819年には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任された。晩年は妻・八重の生地だった下総国臼井(現・千葉県佐倉市)で悠々自適と暮らし、1825年4月9日(旧暦2月21日)に死去した。59歳没。死因やその他詳しいことなど、雷電の死を伝える史料は少ない。墓所は赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地や、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。
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以上 臼井には長嶋茂雄の以前に、大相撲史上未曾有の最強力士 雷電 爲右エ門というスーパースターが存在しました。