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2014年6月7日土曜日

佐倉の農業の6次産業化に向けての高木だいすけが考える、佐倉産にんにくのブランド化「佐倉わさびブランド戦略!!」

佐倉を代表する農産物は「米・佐倉産のやまといも・佐倉豚」と言われています。数年前は佐倉城級グルメとして「佐倉丼」が開発され、市内でもカフェ・アイン、ユーカリが丘の札幌やさんなどで頂くことができます。しかし、現状は、「米・佐倉産のやまといも・佐倉豚」では佐倉全般に言えることですが、佐倉は都市型農業でなんでも栽培でき、こじんまりと農業をやられているので、際だった農作物がないのが現状です。であれば、他の佐倉ゆかりの農産物を検討し商品開発まで検討する必要があると考え、私が提案し事業として取組んでいるのが、佐倉藩佐治家に伝わる、「にんにくを佐倉わさび」といい、殺菌効果があり、滋養強壮の食として江戸時代から用いられた経緯があります。そこで、流通マンとして「佐倉わさびブランド戦略図」を私なりに考えてみました。
 新たな、佐倉の農業、農作物の活性化と農業の6次産業化を推進するためのストーリー、調味料や健康食品としても浸透している「にんにく」。私は、この佐治家に伝わる「佐倉わさび」の物語を産業振興に結び付けるげきだと考えて行動を開始しています!!まずは、にんにくの育て方から勉強します。




佐治家は、堀田正盛(三代将軍家光の側近で最後は大老となった)以来、代々堀田家の家臣として召し抱えられたりっぱな家柄で、中でも、佐治斉(1825年~1906年)は、佐倉藩の重職として幕末期に活躍し、明治になると堀田家の家令として、堀田家や地域のために献身的に努力した功労者です。済の仕えた佐倉藩主正睦は、安政2年(1855)老中に再任され、今でいう首相兼外相となり、藩士の若手の中から私的な秘書として、西村茂樹や済らを抜擢し、極秘外交文書の取扱いを命じました。済は、後に年寄役という重職にも任命され、維新後の明治2年(1869)廃藩置県の時には小参事を命ぜられました。そして、維新の混乱の中で、藩士藩民の生活の安定のために努力しました。
 明治4年(1871)佐倉藩は、佐倉県となりましたが、済は堀田家家令(総取締りの役目)となり、懸命に勤めました。藩校「佐倉学問所」は、寛政4年(1792)藩主正順により創立され、「温故堂」「成徳書院」「鹿山精舎」「佐倉集成学校」「佐倉尋常中学校」などと名前を変えながらも、200余年にわたる伝統に輝きながら、今の「千葉県立佐倉高等学校」にみごとに引き継がれていますが、この長年月の歩みには、乗り越えなければならない多くの困難がありました。明治になっても常に堀田家の援助が欠かせませんでしたが、特に明治36年(1903)廃校の危機に際し、済は老躯にむち打ち、東奔西走しての努力の末、堀田家の財政面、施設設備面での全面的な協力によってその難をまぬがれることができました。(佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典Ⅰ より)

以上 「郷土史家&食品流通マンとして佐倉をプロデュース」した結果、導いた、高木だいすけの提案でした!!

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