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2012年3月27日火曜日

「平和都市宣言のまち 佐倉」忘れてはいけない、3月10日は東京大空襲

3月11日は、東日本大震災のあった日であるが、
3月10日は東京大空襲であった事を忘れては
いけません。

今年は東日本大震災から1年という事で
3月10日の東京大空襲の報道が薄れていた
気がしたので、取り上げてみました。

過去の歴史を知り歴史感を養い、現代社会に
役立てていかなければならないと考えます。







1945年(昭和20年)3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りにその後城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。
アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。[要出典]
東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。 午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。
当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものであった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風空っ風)は直接・間接に大きな影響を及ぼした。

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