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2012年2月24日金曜日

佐倉義民伝 ~農民のヒーロー ・宗吾様が亡くなられてからちょうど360年~

佐倉義民伝(さくらぎみんでん)


下総佐倉の名主木内宗吾は、不作と過酷な課税に苦しむ佐倉の農民を救おうと、死罪覚悟で将軍への直訴を決意し、家族に別れを告げるため密かに帰郷します。印旛沼の渡し場では、宗吾詮議のため、夜の渡航が禁止される中、宗吾の覚悟に感銘した渡し守甚兵衛は、舟を出すよう計らいます。宗吾は、妻おさんと我が子たちとの対面を果たすも、これを見咎めた悪党の幻の長吉が宗吾を訴人しようとします。しかし運良くこの難儀を逃れた宗吾は、降りしきる雪の中、江戸へ向かいます。ついに、東叡山寛永寺で、将軍家綱への直訴を果たすのでした。
農民のために、わが身を捨てて立ち上がる正義と慈愛に満ちた宗吾の生き様が心を打つ、傑作を上演致します。






宗吾様墓所



宗吾霊堂は、宗吾様の名で親しまれる古刹で、9月第一土・日の御待夜祭や紫陽花名所として知られています。開基は古く、桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立したと言われています。
 正しくは、鳴鐘山東勝寺といいます。成田といえば新勝寺が先に思い浮かぶかと思いますが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているのです。 
 江戸時代初期、4代将軍徳川家綱の時代、今から約360年前のことです。 
 打ち続く凶作と過酷な重税に苦しむ農民たちを救うため、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちが幕府に農民の窮状を訴えました。
 しかし、その訴状は受入れられず、木内惣五郎は、当時禁じられていた将軍への直訴を決行。この直訴により、農民たちを苦しめていた重税が見直され、村々の願いはかなえられましたが、惣五郎は処刑されることに、惣五郎の家族までもがその対象となり、承応2年(1653年)8月3日、幼い子供らまで刑に処せられました。まさに命がけの直訴でした。
 それから100年後、宝暦2年(1752年)、佐倉藩はその失政を悔い、木内惣五郎の名誉を回復し、「宗吾道閑居士」の法号を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになりました。
 今では江戸時代の義民・佐倉宗吾様が祀られているお寺として、全国の信者が参拝に訪れています。

松本幸四郎さんの言葉

今年は、宗吾様が亡くなられてからちょうど360年にあたるのだそうです。それほど前の出来事ですから、時代の流れのなかに埋もれてしまってもおかしくなかったと思うのですが、人数や日付などがきちんと記録として残されています。それだけ佐倉の方々の宗吾様への想いが強いからでしょうし、そのおかげで今日に至るまで宗吾様の行いが伝えられ、芝居にもなったのだと思います。宗吾様を演じるたびに思うことですが、気持ちを受け継いで行くことの大切さを改めて感じました。

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