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2012年11月21日水曜日

佐倉市戦没者追悼式 ~佐倉は軍都・歩兵57連隊~

本日11月20日 平成24年度 佐倉市戦没者追悼式が行われました。
佐倉は千葉県内の陸軍の軍都として戦前まで発展して来た歴史が
あり大勢の方々が戦火に散りました。
 遺族の方々も高齢化がすすみ、戦争の悲惨さを伝える機会が少なく
なっています。佐倉市は平和都市宣言をいち早く行い平和事業にも
取組んでいますが、世界の恒久平和のためにも戦争のない世の中の
実現に向けて政治家として取組んでいなかければならないと考えさせられた
式典でした。




佐倉城から佐倉連隊兵営へ

廃藩の後、佐倉藩堀田氏11万石の居城だった佐倉城は、明治政府の方針により
陸軍の兵営に転用されることになった。
城は解体され、郭内に住んでいた士族たちは移転させられた。
そして徴兵制により、庶民を主体とする兵士が集められたのである。
兵営の敷地には、彼らを収容する兵舎や連隊本部・厩うまや・酒保しゅほ・
病室・弾薬庫・練兵場など各種施設が置かれた。
文明開化の時代を象徴するように、最初建てられた兵舎はフランス式であり、
そのことは発掘された洋式のジェラール瓦などからもわかる。
起伏のあった地形は大幅に埋め立てられ、平坦地が造成された。
施設は拡張・改築され、漆喰しっくい仕上げの白壁で四隅にコーナーストーンを
貼った当初のフランス式兵舎は、やがて下見板したみいた張りの和風の
外観に変わっていく。
兵舎の建物は、戦後も新制中学校の校舎として使用されたりしたが、
国立歴史民俗博物館の建設にともない最終的に姿を消した。

 

歩兵57連隊とは?


当初は青森で編成され、第15師団隷下歩兵第29旅団に属す。
日露戦争では第2軍のもと、首山堡西地区の守備などにあたっていた。
明治41年9月、陸軍管区改正により第1師団に加わり千葉県習志野に凱旋。
明治42年3月、歩兵第2連隊の茨城県水戸への移駐を受け千葉県佐倉に移る。
昭和11年4月30日、臨時編成の命が下り、チチハルに赴くが、途中、第3大隊は奉天
から本渓湖に直行し討匪行の任務に就いた。
日中戦争勃発すると第3大隊は混成第2旅団の編成下に入り天津、張家口に応急派兵。
長城線攻撃作戦を皮切りに八角台、張家口を突破、山西省の大同に進攻し無血入城を
果たしている。
その後、7年間をソ満国境の孫呉で警備の任に当たる。
その間の昭和14年7月、速射砲中隊がハイラルでソ蒙軍と交戦、10月には第3大隊が
龍門付近の討伐に参加している。

太平洋戦争下の昭和19年、第3大隊(大隊長:谷島大尉)がグアム島に出征。
混成第48旅団の隷下に入りグアム島の守備を担当する。
7月、米軍上陸。
第3大隊(628名)はマンガン山で激闘するが、8月11日玉砕。

連隊主力(2,500名)は比島決戦部隊としてルソン島に転進。
途中、第1師団のレイテ島派遣によりレイテ島へ転進。
昭和19年11月1日、オルモック湾に上陸したが、輸送船が敵機の爆撃を受け
積載物の殆どを焼失する。
11月4日、米第24師団・米第32師団を相手にリモン峠で40日間にも及ぶ壮絶な
戦いを展開。
12月、カンギポット地区への転進命令を受け、更に昭和20年1月、第1師団と共に
セブ島へ転進。
この時の連隊の兵力は宮内連隊長以下、わずかに198名。
5月11日から遊撃戦に入り、スソ川・オリボ川などで戦いながら各地を転戦するが、
この時点で更に約50名の兵士を失っている。
8月28日の停戦式により戦闘終結。










根郷小学校合唱部
以上  平和事業の推進を推奨する 佐倉市議会議員 高木大輔の活動報告でした。

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