広島平和記念館資料館、初代館長 長岡省吾氏の存在を知りました。原爆市長と言われた浜井信三氏の協力もあり広島平和記念記念館が完成しました。
広島平和記念館資料館は、一人の地質学者の情熱が原爆資料館を生んだ。初代館長の長岡省吾さん(73年、71歳で死去)。半生を被爆資料の収集にかけた哲学は「人類の歴史に刻まれた悪魔の刻印を忠実に後世に伝える」ことだった。広島文理大(現・広島大)地質鉱物学教室の嘱託だった長岡さんは、被爆翌日、大学や親戚の安否を確かめるために広島に入る。護国神社にたどり着き、石灯ろうに腰を下ろした。その瞬間、針で突いた痛みを感じて跳び上がった。石の表面は磨き上げられ、無数のトゲがあった。トゲには一定の方向性があった。瞬間的な高熱によって表面が溶けて出来たものと推定できた。「これはただごとではない。大学で耳にした原子爆弾の影響では」。そう直感した。その日からリュックを肩に焼け跡を歩き回った。花こう岩の墓石、門柱などに残る「影」から熱線の方向や角度を、焼けただれたカワラや石から、距離別、方向別の熱量の強さを調べた。地質関係の本をヤミ市で売り、空のリュックにカワラや石を入れて帰った。
「座敷も床の間も博物館の倉庫のようにガラクタに占領されていた」と長男の成一さん(71)=大竹市玖波2丁目=は振り返る。残留放射能の恐ろしさがちまたに広がっていた。長岡さんも9月初めから下痢や高熱が1週間続いた。妻の春江さんが資料を戸外に出すように主張する。「命とどっちが大事なんですか」。「もちろんカワラだ」長岡さんも後に「被爆直後撮ったフィルム20枚のうち16枚が放射線で感光していた。さすがにいい気持ちはしなかった」と本音を明かす。こうして集められた資料は爆心地の特定に大きな役割を果たした。復興のツチ音が高まるにつれ、広島市も被爆資料の重要性に気づく。49年、基町の中央公民館内に「原爆参考資料陳列室」を開設。長岡さんに約6700点の資料を提供してもらい、管理者として嘱託の辞令を出した。55年、原爆資料館が完成、初代館長に就任する。原爆資料館長はヒロシマの顔である。ネール・インド首相、ルーズベルト米元大統領夫人ら著名人に原爆の悲惨さを訴えた。ネール首相は「君によって私はヒロシマを記憶した」と握手を求めたという。62年に退職後も被爆鉄材の収集や分析を続け、物議を醸したろう細工の被爆者人形には「どんなリアルなものでも作り物だ」と反対した。ろう人形が登場したのは長岡さんの死(73年)の半年後である。「父は学徒を貫いた生涯だった。生の資料を展示してこそ平和を訴える力になる。ヒロシマの風化が進むほどその思いが強くなる。その辺りが市の方針と合わなかったのだろう」と成一さん。長岡さんの身分は退職するまで嘱託だった。ヒロシマの地質学者の執念が詰まった原爆資料館。だが、年間100万人を超す入場者であふれる展示場にもパンフレットにも「長岡省吾」の名前はない。(ヒロシマホームページより出典)
長岡省吾氏を知り、国際社会において、平和について、もっと深く考える機会となりました。
以上 高木だいすけの発見でした。
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